小林麻耶が坂上忍のインタビュー受けていて。

「病気がだいぶ良くなってきていて、とてもうれしい。
ごはん食べたり外を歩いたり。そういう何気ない日常のことが出来ることがうれしい。どうということもない信号機の美しさなんかにも驚いたり。毎日に”感謝”」と言っていたのだけれど。

大筋理解できるし、そのとおりだと思う。
けど。この”感謝”っていうのはちょっと違うかな。
感謝じゃなくて感動にしたほうがいいかな、と思った。

それに感動とした場合、自分と感動した物(例えば信号機。空の青さ)しか登場しないけれど、感謝となると、その他に神だの親だの友達だの、そういう第三者が出てくる。

神ならまだいくらかマシなような。
日本人の場合、神ではなくて、親だの友達だのだよね。
おかげさまでの世界。

私は感謝しない。

私もたまに或いは時々、他人に親切にするけれど、それは私が親切にしたいから。それに対して見返りは求めない。別に感謝されなくても気にしないし、感謝されればうれしい。

だから私も他人には感謝しない。とてもとてもグッドタイミングで心のこもった何かをしてもらい、その結果、私が心を動かされたら大げさにお礼を言うかもしれないし、また、そういう時に全身全霊でアピールする素直さ、反応の良さは身に付けたいとは思うけれど。おざなりのお礼、感謝、一日に百回ありがとうという練習、みたいなのはしたくない。

世の中皆がエゴイストになれば幸せになるのかも、ね。
自分のやりたいことをやる。
はっきりと言う。伝える。
ときには取っ組み合いの喧嘩。
でもあとに引きずらない。
幼稚園の砂場の喧嘩のような他人との関係。

なかなかそうもいかない。

コメント

moco
moco
2017年4月9日16:00

1日に100回ありがとうというのは、形から入るという点で、意味があるのかもしれませんが、個人的には合わないかもなぁと思いました。やっていて、訳が分からなくなりそうだし、本来の感謝の気持ちが薄れそうな気がするので。
人によるのかもしれませんね☆

椿美
2017年4月10日10:15

「楽しいから笑うのではない。笑うから楽しくなるのだ」という言葉もあるので、形から入るというのも大切ですよね。でもやっぱり私も個人的には合わないのです。ただし集団で暮らす以上、100回ありがとうというみたいなスタンスでいくほうが正解なのかな、とも思います。