最近母からよく言われる台詞。
病院でお店で様々な場所で、母からこのようにはっぱをかけられる。

”もっと図々しくなりなさい。おとなしくしているだけでは馬鹿をみる。列に並んだりしないで、図々しく主張しなさい。”

やってられないな。

愚痴・母親

2017年11月11日 愚痴
安静時も具合が悪い状態が数週間続いていた母親。
脈拍数が速く山登り状態なので辛かったと思う。
「もう死んでしまいたい! 死んでしまいたい!」と一日に数十回喋っていた。
本人も辛いと思うけれど、聞いているこっちも辛い。非常に辛かった。

おかげ様で母の体調は回復。
ところがそうなると今度は一転して非常に活動的になる。
あれもやりたい。これもやりたい。食べたい。行きたい。旅行したい。

先週は通院日だったのだけれど、7時半頃起床したのかな。9時半頃家を出て、診察が終わったのが12時半ぐらい。それからショッピングモールで牡蠣尽くしご膳というのを食べ、ケーキを買った。
この時点で私はヘトヘト。母親だって体力は消耗しているはず。

けれど、「帰りましょう」という私の意見は却下され、
「いいわ! 独りで買い物出来るから! あんたは帰っていい! 服だって食べ物だって買わなきゃならないものは沢山あるんだから! ほんとにあの家には何もないんだから!」

置いて帰る。

母が帰宅したのは7時半ぐらいかな。

本当に。このエネルギーはどこから来ているのだろう。

母の起床は7時半だけれど、私はその前に起き朝食を準備したり洗濯をしたりしている。前日は出勤日なので5時半起き。一日働き、夕食の買い物をし、夕食を作っている。
病院では2人の先生に診てもらっているのだけれど、先生方の話しを聞き、こちらも要領よく話をするのはとても疲れる。

診察後の会計とクスリは、帰宅後あらためて出かけて行かなければならない(母が診察後早く帰れるように)。


母をイオンに置いて帰ったあと、私は会計とクスリをしに病院に行き、夕食の準備。
母は服は買わなかったが、食料品をわんさか買ってきたので、私の夕食はほぼ無駄になった。でも汁は飲んでくれた。

ラム肉。牛筋肉。ヤリイカ。その他もろもろ。
買ってきた食材の調理はもちろん私の仕事。



耳が。

また突発性難聴がぶり返した"(-""-)"
正式には低音障害型感音性難聴。


ハイモードで一日喋りまくる母親に、
「ちょっとごめん。耳の調子が悪いから静かにね」とおとといの夜お願い。
もちろん今度は一転して機嫌を損ね、喋ってくれなくなった。

こっちが作る食事だけは食べているけれど。


朝はガスコンロの設置の人が来た。
幸い母はまだ寝ていたので良かった。
他人が家に来るのをとても嫌う母親。

私は修理の人とか。そういう人を手配する時とても気を遣う。
なるべく母とバッティングしないように。


耳!
音が響く!
耳鳴り!
非常に嫌!

6月1日の日記

2017年6月1日 愚痴
先日のこと。

母親が近所のホールへ、無料のコンサートに行きたいと言い、私が車で送っていった。母親は支度に時間がかかり、15分ぐらい遅刻。これはいつものこと。ホール前で降ろし、私は父親の施設へ。

父親の施設では、洗濯物を交換し、Mちゃんの家へ電話をし、Mちゃん及びEちゃんと少し話す。
父親も2人と話す。父親はEちゃんと会いたいと言う。

Eちゃんがこちらへ来るか。父親が向こうへ行くか。
そのことをMちゃんと話す。
しかしながら、Mちゃんの家は東京都下。かなり遠い。
Eちゃんは93歳だし、父親は80代後半。体力的になかなか難しい。

Mちゃんは、父親の施設のロケーションをグーグルで調べてくれていたみたいで、「良いところね! でもちょっと遠い。ラインのテレビ電話で話す、というのはどうかしら。」などと言ってくれる。

私。父親。Mちゃん。Eちゃん。
考えてみれば、この4人は全て血が繋がっている。
そして少し似ている。
非常に話していて楽だ。価値観が似ている。

皆、行動力があって決断が早く、自分の気持ちに正直。
今回の父親とEちゃんのことも、父親はEちゃんに会いたい、そしてEちゃんも父親に会いたい。だから2人を会わせてあげたい。非常に分かりやすい。

お見舞いに行かないわけにいかない、とか、お見舞いに行くのが筋、とか、死ぬ前に会いに行くべき、とか、母親だったら、そんなふうに考えるのだろうけれど。
私達はそうではない。会いたいから会う。それだけ。


父親の施設の帰り、ホールへ母親を迎えに行く。
車は奇跡的に開いていた一番良いスペースにとめる。
ここからだと入口に近いから、母親があまり歩かなくて済む。

コンサートが終わるまで20分ぐらい待つ。
人波の中、母親が出てきたのだけれど、どこかの人の良さそうな、そしてルックスも悪くない60代後半ぐらいの男性の腕につかまって(!)歩いてくる。エスコートしてもらっている。

入口の案内係の人も母親に近寄り、「大丈夫ですか? ご気分は如何ですか?」。

帰りの車の中で母親は上機嫌。

「あの男性は隣に座った人。とっても親切なの。色々面倒をみてくれて。世の中には不親切な人がいるけれど、こっちはそんな人は大嫌い! やはり親切でないと。入口の案内係の女の人もとっても親切。席まで案内してくれたの。ドアから席まで急階段があるの。それを案内してくれたの。やはり人間は親切でないと!」


うーん。急階段だったのは、あなたが遅れて、脇の非常口から入った為だと思う。時間内に入場すればそんなことはない。

それから母親の言う「親切な人」。
これ、最近になってやっと分かってきた。
ようするに母親を特別扱いして、ちやほやとしてくれる人が「親切な人」ということなのだ。
それをしない人を「不親切な人」。

どうしても困っている時に助けを乞うのなら分かるのだけれど、そうではない。
コンサートとか旅行とか。ケーキを買いに行くとか、美容院とか。楽しみの為の外出とか。
そういう所に自分の健康を配慮せず出かけ、具合が悪くなり、色々な人にヘルプを頼む。それが通れば、親切な人!」。通らなければ「不親切な人!」。

ああ。
昔からそうだったのかな。分からない。
歳を取ったから? いや昔からだ。

母親は自身、介護というものをまったく経験していない。
姑は施設に入れてしまったし、自分の母親(養母)の面倒も見ていなかったと思う。そして今は自分の夫を施設に入れて、半年に一回ぐらいしか会いに行かない。「こっちも具合が悪いの!」と言っているのだけれど、でもコンサートには行くんだよね。旅行もしたい。外食もしたい。美容院にも行く。具合が悪くても。でも自分の夫には会いにいかない。

うちの父親の介護状態だけれど、それほど悪くない。
自分で歩ける。自分で食べられる。ぼけてもいない。
脳梗塞の後遺症は少し残ってはいるけれど。
でも、母親はもう父親の顔も見たくないのかな、と思う。

何だろう。

母親はすごい。
父親は跡取りだったのに、その父親を姑の家から切り離し、同居を解消させた。
姑が少しぼけはじめた時も、叔母達は交代で介護をしたのに、母親はしなかった。
姑を父が引き取ることになった時も、わずか3週間ぐらいで病院に入れてしまい、姑(私の祖母)はそこで4年ぐらいいた。
あの頃は、今のような介護施設はないから、病院。そう。精神病院。
6人部屋ぐらい。

長くなるので、ちょっと止める。

私はその姑にそっくり。
何だろう。なんかそろそろ何かをしなければ。
このままではだめだ。


コンサートの帰りは母親の希望で回転ずしへ。

違う。このままではだめだ。
・3月5日夜
・3月6日朝

弟と電話で話す。かなり長時間。1浪中のU君が大学に受かった。その報告に家族でやってくる段取りのため。ところが母親が電話に出ない。話したがらない。
結局弟は私とのみ話した。弟は母親の態度に、そして私にも不満。長年の不満。

「東京の家を売る。お金が入れば父親も母親もそのお金で好きなことが出来て、ふたりとも幸せ。」弟の言葉。

あまりにも唐突。父親と母親と私は、東京の家の家賃収入で主に暮らしをたてている。その家を売ったらどうなる?

「父親も母親も生きているうちにお金を使ったほうが幸せ。死んだらお金は持っていけない。」

そうかな。父親は金銭的には欲しいものはない。母親もお金に変えたらあっという間に無くなるから、売るのはよしたほうがいい、と折に触れ言っている。

そのあたりのことをいうと、
「あなたばかり恩恵に受けている。僕だって恩恵をこうむりたい。」
ああ。やっぱり。これが本音。

だったら最初からそういえばいいのに。
「父親と母親にとってもそれが幸せ」なんて、そういうふうにカタチを整えて切り崩してくる。まるで戦国ドラマか何かの権謀術数。さすが政治家。

それに。私はそれほど恩恵は受けてはいない。確かに東京の家に私の部屋はある。でもあれは管理部屋だし。うちのアパートは自主管理。修繕の手配とか経理とか。そういうのは私がやっている。そして某電話局でも20年働いたんだよね。

そして、(主に母親は)弟には節目節目にそれなりの額の援助もしている。

というか。弟がマンションを購入時。数千万円の援助をしているような。
ような、としたのは、これは父親が弟に与えているらしいから。
父親が自宅を売った時、その代金は弟が管理した。月々父親に送金という形をとったけれど、それが7年弱で無くなった。売った代金のうち幾らかは東京のアパートの建築費のローンを支払ってもらった。だからその残りの話なのだけれど。それでもあまりにはやい。
「マンション購入時には、随分援助してもらったようで。」これは弟のお嫁さん(Aさん)のお母さんの言葉。記憶違いじゃないと思う。確かにこう仰った。


「”椿ちゃんはよくやってくれているから。東京の家は椿ちゃんに全部残しましょう。” Aはこういっているよ。」たしか2年ぐらい前、Aさんはこんなふうに言ってくれていたはず。
弟に言うと、「Aと僕の考えはまた違うから。」

分からない。あのうちは金銭的なことは全部弟が管理しているよう。
そしてこれだけ大きな金額、相続の話なのに、私達にAさんと話させない。
「Aは関係ない。Aには話すな。」
Aさんは色々なことをどこまで知っているのだろう。

私だって、私が全部相続するわけにはいかない、最終的には売って分けるのが一番と思っている。しかしそれはあくまで両親が死んでからの話。
生きている時。そしてまだまだ長生きの可能性がある今の段階では、それはありえない。

「世の中には貧乏なお年寄りもいる。子供に頼らざるえないお年寄りもいる。でもうちはまったくあの子には頼っていない。それを有難いとあの子は思わないのかしら! 私は随分あの子に援助してきたのに!」
これは母親の弁。

「電車に発作的に飛び込もうと思うくらい毎日が大変。」これは弟の弁。
何が大変なのだろう。分からない。でも何かあるのだろう。

そしてU君。
小学校でいじめられ、近所の塾でいじめられ、遠くの塾でいじめられ、進学した私立の中学高校でいじめられ。
そのU君に弟はお金もエネルギーも費やした。そして母親も随分と援助した。

「私がおばあちゃんから貰ったお金の最後のいくばくかをU君の入学時に渡した。大学まで持ち上がりだというから。それなのに持ち上がりの大学に行かない。KOに行くんだ、とか言っている(一時期、KOとか言っていた。)馬鹿じゃないの。どこからKOなんて出てくるのかしら。あんなおぼっちゃま学校で、またいじめられるとは思わないのかしら? どこに行ってもいじめられる。自分の子供にも問題があると思わないのかしら? こっちはなけなしのお金を払ったのに! 大学なんか行かないで働けばいいのに!」

東京の家を売る、ということに関しては、父親にもきいた。
「売ればお金が入り、父親も母親も好きなものが買える、ということだけれど。」

父親は「絶対に売らない! 絶対に売らない! 学費が無いのならU君は働けばいい! 高校を2年(昔は2年?)出ているんだ。大学なんか行かなくていい。行きたいのなら官立?(こういう言い方をした)を受ければよかったんだ!」
とりつくしまもない。

母親は本心は弟が可愛い。でも長年のこともあってへそを曲げているといった感じ。
一方父親のほうは、私もそうなのだけれど、孫が可愛いとか誰かを助けようとか、そういう気持ちはまったく無い人。基本的に自分のことしか考えていない。売りたくないから売らない。それだけ。


結論。
弟には百万円、入学祝いを出した。これは父親の了承を得て父親の指示のもと、私が翌日送金した。「これからも出来る限りの援助をする。だから東京の家を売るのは最終手段。」弟にはこう言った。だからこれから私も頑張らざるえない。

けれどね。弟は一家で父親の施設に面会に行き、その時、
「百万円のことは父親にも了承を得た。」と私には言ったのだけれど。
父親は「知らない。お金が沢山かかるとは聞いたけれど、百万円をこちらが入学祝いとしてあげるという話は知らない。」と言う。

嘘がちらりちらりと混ざる。

「昔はあんな子じゃなかった。こっちは政治家とセールスマンは大嫌い!ずるくなった! 怖くなった!」これは母親の弁。
「こっちはあんたが心配。あんたはひとり。向こうには家族がいる。今に全部だまし取られる! あんたは気が強いようでお人よしだから。」母親。

「うちは中途半端にお金がある。無いなら無い。あるならあるが一番。」母親。

やれやれ。
突発性難聴。治りそうにないかな。ストレスだらけ。


外食

2017年2月8日 愚痴
6日(月)、ペースメーカー外来を受診した。その他にいつもの主治医の診察があった(母の調子が悪いので特別に先生が診てくれた)。

新しいケアマネさんも付き添ってくれた。

その帰り。
外食がしたい母と大戸屋に行った。

その大戸屋で。

・出されたお茶がぬるいと言い、新しい熱いお茶にかえてもらう。
・ご飯がパサパサで不味いと言う。ご飯に少しお湯を足してもらい、電子レンジにかけ、お粥状にしてもらう。
・セイロ蒸し野菜を頼んだのだけれど、通常は7分の蒸し時間とのこと。これでは硬いので、20分間蒸してもらう。
・テーブルには醤油、ソースなどはあったが、お酢は無し。お酢を貰う。小さな器に入れられてもってきてくれた。


これだけのことを店員さんに頼んだのは勿論わたし。
非常にストレスになる。

母は、相手をしてくれた店員さんのひとりを、
「とても感じが良い! 嫌な顔一つしなかった!」と褒めていたけれど、何か違うんじゃないかと思う。
母にとっては自分の要求を叶えてくれる人が「良い人」。
逆らう人は「感じの悪い人」。

昔からこんな人だっただろうか?
単なる老化?
いや。
昔からだ。
年を取って、色々なデコレーションが剥がれて顕在化したのだと思う。

手ごわい。
本当に私は「呪い」にかけられている。

カウンセリングに通うより、占い師や呪い師、加持祈祷に行ったほうが良いのではないだろうか。

救急車で運ばれたのは、この日のわずか一週間前なんだよね。
こちらも偶然見つけたブログよりの引用。

http://nakaosodansitu.blog21.fc2.com/blog-entry-1911.html

中尾英司という人。
うちの母と私の関係に一番近いのでは?と思われるブログを発見。
消えてしまった時の為に引用させて頂きます。
http://d.hatena.ne.jp/yuhka-uno/20110901/1314876472

作者は、yuhka-uno という方です。



母は、家に人が来るとなると、家の中を完璧に片付けていた。私の担任になった先生は、大抵誰でも「yuhka-unoさんの家は綺麗だね」と言ったものだし、その中の一人は、「yuhka-unoさんの家は、生活感がない感じやね」と言った。

学校の先生が来る時に家の中を綺麗にするのは当然として、母は消防署の人が火災報知器の点検に来る時や、電気屋の人が家電を修理しに来る時でさえそうだった。

母が留守で、私が火災報知器の点検に立ち会うことがあった日、私は布団を押入れに仕舞わず、畳んで部屋の角に置いておいた。火災報知器は、押入れの中にも設置されているからだ。押入れに布団が入った状態では点検がやりにくいと考えた。だが、帰ってきた母は、布団を出しっ放しにした状態で消防署の人を部屋に入れたことについて、気に入らなかった様子だった。

 

宅配便が来たとき、私がすぐ行って玄関のドアを開けると、母に怒られた。玄関に出ている靴をきちんと揃えてから出るように、と。だが、宅配業者の配達員が、玄関の靴が散らかっているかどうかを、そんなに気にするだろうか。私が配達員なら、靴を揃えるよりすぐに出てくれるほうが有難いと思うのだが。他所の家の玄関の見た目より、外が暑かったり寒かったり雨だったり、荷物が重かったりするほうが、配達員にとっては重要な問題だと思うのだが。

 

引越し祝に、母方の祖母と伯母が新居に来ることになった。母は相変わらず家の中を完璧に掃除し、いつもより豪華な昼食を作った。昼食の内容は、ニシン丼と、3~4種類ほどおかずがあった。

昼食の用意をする際、私は全員分のご飯を盛ってニシンを載せた。私は、他におかずが沢山あるのだからと、ニシン丼の量をいつもより少なめにした。

母は食べる段階になって、「ニシン丼の量少ないやん。もう、この子自分が食べる量で考えてるんやからー。もっとご飯入れたるわ。少ないやろ?」と言いながら、祖母と伯母のニシン丼に手を伸ばした。祖母と伯母は首を横に降って、「もうこれで十分やで」と言った。実際、二人はニシン丼のおかわりはしなかった。

母は、二人が帰ったあとも、ニシン丼の量について「あんたなぁ、いっつも自分の食べる量で考えるやろ、あれは少ないで」と言っていた。私は、他人の家でご馳走になる場合、最初から多めに盛られて残してしまうより、残さず食べられる量を盛られておかわりをお願いするほうが、心理的負担は少ないんじゃないのかと反論した。

 

お隣さんが「足を悪くして自治会の集会に行くのがしんどいのよね」と行ったところ、母は代わりに『私が』行くことを引き受けた。その話し合いの場に私はおらず、その取り決めの間、私に何の連絡もなし。別に代わりに集会に行くこと自体が嫌なのではない。私の行動を決めるのに、全く私の意思が入っていないことが嫌だった。母は、まるでお隣さんに親切に自分の「モノ」を貸し出しているような感覚なのだろうか、と思った。

ちなみに、そのお隣さんが『他人に対して気を遣って丁寧に接する母と、それができない私の話』で書いた、「お母さんよりあなたのほうが話しやすいわね。あなたのお母さん気を遣う人だから…」と言った人である。

 

その他にも、母の前で目上の人と話したときは、後から言葉遣いや言った内容について細かく注意されたり、親戚の集まりなどの場で気を配ることなど、様々あるものの、わかりやすい具体例はだいたい上記の通りだ。尚、来客がある時に家を片付ける作業は、私が小さい頃はもちろん母がやっていたが、私が成長するにつれ、その作業の大部分を私がやることになっていった。

母は、家の外の人に対しては親切に振舞ったが、私に対しては親切とは言えなかった。他人の評価目線から身を守るための「鎧」として気を遣っていた母にとって、家の中ではその「鎧」を着る必要はなかったのだ。他人と母とでは、他人が母を評価するという関係だが、母と子供とでは、母が子供を評価するという関係なのだから。

他人に対して気を遣ってしまうと言えば聞こえは良いが、そういう人は、自分がほぼ完全に支配下に置いておける人間に対しては、逆にほとんど気を遣わず、まるで自分に属する「モノ」のように、他人から良く思われるための道具にしてしまうという暗黒面があると思う。

 

母は上記のことを「普通」「常識」「皆こうしている」と言っていた。理想が高い人は、自分は理想が高い人なのだという自覚がない。私もまた、母の理想が普通の人と比べて高いことにはっきりと気がついたのは、成人してからだった。

私は元来マイペースな人間だ。幼稚園の頃、参観日に親が来ると、教室で私の姿だけが見えない。先生に尋ねると、私は別の部屋で一人で絵を描いていた。それくらいマイペースだ。そんな私に、両親(特に母)は「弟の面倒をよく見る、しっかりした良いお姉ちゃん」という、ものすごく高いハードルを要求した。我が家は、父、母、私、弟二人の五人家族で、こういう家族構成なら、普通は父母が親で私と弟二人が子供という立ち位置になるはずだが、我が家は父母と私が親で、弟二人が子供という立ち位置に近かった。そのため、本来なら親の責任や役割であるべきことまで、私が担わされることもあった。両親が離婚してからは尚更そうなった。

私は、頑張ってもなかなか母の言う「普通」のレベルに到達できなかったので、「私はどんくさい子なんだ」「私は、ものすごく頑張らないと、他人とちゃんと付き合えないんだ」という自己イメージを持つようになった。その一方で、「でも、そこまでする必要ないんじゃないの?」という疑問もうっすらと持っていた。

 

親子関係は人間関係の基礎だ。働くようになると、私は失敗する度、「こんなに失敗して怒られるのは、自分だけなんじゃないのか」「他の人は、きっと私より上手くできるんだろう」と思い込んだ。母に「あんたがそんな態度だと、私が悪く思われてしまう!」という恐怖感から怒られていた私は、上司や先輩に怒られる度、「私があまりにできないので、きっと、すごくイライラさせてしまっているんだろう」と思い込んだ。この頃が私の今までの人生の中で一番の暗黒期だった。

その後、お隣さんの「お母さんよりあなたのほうが話しやすいわね。あなたのお母さん気を遣う人だから…」という言葉と、カウンセラーの「気を遣う人に接すると、こっちも気を遣うからね」という言葉がきっかけで、母に植え付けられた洗脳を振り解き、新しく自分なりの他人との関わり方を構築し直すようになり、その過程で段々楽になっていった。「母は、他人に嫌われないために気を遣っているのであって、他人に対する思いやりからじゃない」ということに気付いてからは、「もっとテキトーに生きて良い」「母のように完璧にしようと思わなくて良いから、相手にとって居心地が良ければそれで良い」と思えるようになった。例えば、親しい友人が家に来た時などは、「喉乾いたら、冷蔵庫の中の飲み物、勝手に飲んで良いからね」で良いんだよね。

実際、悪くは言われないけれど、相手が気を遣ってしまうような接し方って、相手のためじゃない。本当は、相手に気を遣わせないようにするのが、思いやりってもんなんじゃないだろうか。素直で気さくな人のほうが接しやすいもんね。

 

そういう過程を経て、お客さんが来るときに掃除をするのは、相手にとって居心地良くするためであって、後で「あの人の家、散らかってたわね」と言われないようにするためではない。親業は、子供が自分の人生を歩んでいけるようにするためであって、「良い親」という自己イメージを保つためにするのではない。自分の知性を成長させるには、純粋に問題そのものに向き合い、好奇心や探究心で行動することであって、「頭が良い人」という自己イメージを保つことではない。良い作品を作るのが目的であって、その作品を作っている自分が良く見られることが目的ではない。というふうに考えるようになった。

 

で、「ちちんぷいぷい」の中で、大吉アナが失敗して怒られているのを見て、「ああ、ああいう失敗は誰でもするものなんだな。私だけじゃないんだ」と思えたこと。大吉アナを指導する上司や先輩たちが、本心から大吉アナを受け入れ、彼の成長を願っているのがわかったこと。色々失敗しても、その失敗が経験としてきちんと積み上がって、大吉アナが成長していっていること。これらのことが、番組を見ることによって、自分が自問自答しながら構築した認識や価値観が、客観的な視点から再確認できたことが、私にとっては発見だったので、ブログに取り上げることにしたのである。

 

まぁ、積み上がっていく失敗と積み上がっていかない失敗ってあるよね。私は母に洗脳されている頃、積み上がっていかない失敗ばかりを繰り返していた。母のやり方は、私を成長させる部分が多少はあったかもしれないが、それ以上に私の成長を停滞させることになった。

そりゃ、元来一人で絵を描いているようなマイペースな人間を、「弟の面倒をよく見る、しっかりした良いお姉ちゃん」に仕立てあげようとするなんて、最初から無理がある。母は私を褒めることはあったが、それは母の望む「良いお姉ちゃん」でいられた時に褒めていたのであって、それは褒めてはいるが私を認めてはいない。誘導するための手段として褒めているだけだ。だから私は、「褒めて育てる」という、一見耳に心地良い子育て法も、危うい面を持っていると思っている。

認めて育てるべきは、一人で絵を描いていたマイペースな私のほうだったのだ。だから私は、そっちの自分を自分自身の手で育てていくことにした。

 

1月18日の日記

2017年1月18日 愚痴
6:00頃 起床。
お湯を沸かしたり。洗濯機を回したり。仏壇に茶をあげたり。

駅に行き、広報を取ってくる。
近所の空き家、駐車場など回るが、夏みかんは収穫なし。
てっぺんのほうへ、2つ3つ残っているだけ。

8:45頃。家に戻る。

母親の談。

「いったいどこへ行っていたの! 洗濯機に洗いあがったのを放ったまま!  お味噌汁は食べないの! あんたの欠点はね! 作っても自分で食べないの! 料理人はね! 自分で食べて味見しないといけないの! あんたは食べない!食べない! だからダメなの! イクラの醤油漬けだって、自分で作って何故食べないの! それからおでん! 市販のセットなんか買ってきて! こっちはね。はんぺんならはんぺん。つみれならつみれ。一個一個ちゃんと吟味して買ってきて、スープも自分で作るの! 付いてきたインスタントの汁なんて! 添加物だらけ! 今の子供たちは添加物だらけでどうなるのかしら! 回転ずしなんて!あんな物ばかり食べて! 回転ずしなんか良くない! 焼肉が食べたい! 肉が食べたい! 焼肉には一人で行けないから! この辺には良い店がないから ! しゃぶしゃぶが食べたい! ぎゃあぎゃあぎゃあぎゃあ!」

「鶏肉はトマトスープにしてちょうだい!!」

トマトスープを煮ていると。

「スープでなくもっと水分が少ないのにしてちょうだい! スープでお腹がいっぱいになるから! 野菜がとれなくなるから!」

女心と秋の空ではないけれど、くるくるくると気持ちが変わる。
そして、最近は短期記憶容量が無くなっていて、言ったことを忘れるみたいだ。


「今日はショッピングモールに行くから! ずっと家にいるから! 歩けなくなるから! 歩かなきゃ歩かなきゃ歩かなきゃ!!! お昼はいらない!」

医者には歩かないように言われている。
そして、10:45現在。
まだ化粧もせず。日向で広報を読んでいる。
出かけるとしてもおそらく15時過ぎ。
さっさと出ればいいのに。





1月17日の日記

2017年1月17日 愚痴
10:10 家を出る。
11時半頃。千葉着。
施設Gにて契約書にサイン。
14:00 旧ケアマネさん。新ケアマネさんを連れてくる。
旧ケアマネさんはすぐに帰る。今月で彼女との契約は切れる。
15:30頃 新ケアマネさん、帰る。結構長くいた。第一印象。ニコニコと屈託がない。気を使わなさそう。マイナス面としては、大雑把。太っている。

食料品の買い物をした。5千円ちょっと。
夕飯。うなぎ。お味噌汁。玉ねぎのサラダ。茶碗蒸し。

母親の談。

「せっかくのうなぎなのに、ご飯を炊いていない! 今朝炊いた古いご飯でなく、炊きたてのご飯で食べたい! 茶碗蒸し? あんたがいない時、こっちは毎日毎日、卵ばかり食べている。卵なんかもう食べたくない。何?これ? 卵しか入っていない茶碗蒸し? 玉ねぎのサラダは糸を引くから食べられない! お味噌汁なんかいらない! さっきまでこっちは粕汁を食べたいたのが分からないの! 沢山作りすぎたから、3回も無理をして食べたのが分からないの! あんたが食べないから!」

立て板に水で、こんな感じで15分ぐらい一人で母は喋っていた。

ひとしきり喋ったあと、

「あら。このうなぎ、柔らかくて食べられるわ。茶碗蒸しのシイタケ、柔らかくて食べられるわ。玉ねぎのサラダも美味しい。少し糸をひくけれど。」

最初っから褒めればいいのに。

「市役所から広報を取ってきていない! あんたはすぐに忘れる! 夏みかんはどうしたの! 冷凍庫のうどんは! こっちは乾燥めんは茹でられない! 大変だから! ぎゃあぎゃあぎゃあぎゃあぎゃあ」

夏みかんに関しては、近所の駐車場などから”盗ってこい”ということ。
泥棒と同じ。気がすすまない。

冷凍めんに関しては、冷凍庫の中は、母親が通販で購入したカニでいっぱいなので、入る余地がないのだけれど。

母親は放置することに決めた。