Diary of a wimpy kid
シリーズものの洋書。
8歳以上ぐらいの男の子向け。
洋の東西を問わず、小学生男子というのはこういうのが好きなのだな、と思った。

たわいのないちょっとしたお話し。お父さんやお母さん、兄弟、友達との日常生活。
マンガのような小説のような。絵柄もシンプルで親しみやすい。
そして本当に簡単な単語しか使われていない。でもちゃんと複雑な状況を説明できているのはすごいな、と思う。日常生活ってあまり難しい単語は使わないよね。絵が付いているから分かりやすいし。

図書館から借りたものだけれど、買うかもしれない。
数年前から図書館で借りて繰り返し読んでいる作品。
画像はちくま学芸文庫だけれど、私が借りているのは新潮社の単行本。
もっと大きい。もっと重い。

リピ借りしているので、購入した。
単行本は絶版のようなので、アマゾンで古本を購入。
状態は良く満足。
おそらく持ち主は読んでいないのかも( ^^)

箱があって本体はハトロン紙のようなもので包まれていて。
しおり紐がついていて。
本って昔は高価だったから。こんな風に丁寧に作られていたのだなと思った。
残念なのは紙が変色していること。

けれど実はこの本は、本編と続編、そして両者を合わせた全編があるということに、アマゾンで購入してから気が付いた。

図書館でいつも借りていたのは全編。
そしてアマゾンで購入したのは続編。

全編のほうは紙の違いだろうか。
図書館でいつも借りているものは変色していない。
こちらも買おうかな。


追記 この本の書評、数年前もしていますね。書いてから気が付きました。
そもそもの始まりが好きな私なので、やっぱりなるべくオリジナルに近いものが読みたいと思って借りてきた。

「スッタニパータ」というのが、おそらくは一番古い経典のひとつである、とのこと。

・・・この書の主要部分は、もともと詩より成り、読まれるものではなくて、吟詠されたものでした。


なるほど。文字はもうあったと思うけれど、やっぱり吟詠されたものだったのですね。

そして、
「テーラガーター」(仏弟子の告白)と「テーリーガーター」(尼僧の告白)。

これらも古く、ようするにこの二つは体験談。
自分はいかにして仏弟子になり救われたか、ということを、様々な人が告白している。
これってようするにアマゾンとかのレビューと同じかも。
昔も今も人々の考えていること、やっていることは皆同じ。
ただ形が変わっただけにすぎない。

仏教以前。
バラモン教があったのだけれど、バラモン教が勢力を持っていたのは昔ながらの地域で、まだ貨幣が流通されていなくて、物の売り買いには牛を単位にしていたのだそう。

そんな中で仏教は、貨幣が流通されつつある新しい地域で盛んになったとのこと。

仏陀は紀元前の人だし何だか大昔の人のようだけれど、仏教と言うのは、ようするに急速に都市化して変貌する社会の中で悩む人々を救うために出来た宗教なのかな、と思った。


貪っている人々のあいだにあって、患い無く、大いに楽しく生きよう。貪っている人々のあいだにあって、貪らないで暮らそう。
われらは一物をも所有していない。大いに楽しく生きて行こう。光り輝く神々のように、喜びを食む者になろう。
勝利からは憾みが起こる。敗れた人は苦しんで臥す。勝敗をすてて、やすらぎに帰した人は、安らかに臥す。
健康は最高の利得であり、満足は最上の宝であり、信頼は最高の知己であり、ニルヴァーナは最上の楽しみである。

これは「ダンマパダ」よりの引用。
断捨離だとかミニマリズムとかに通じるような。

「山怪 山人が語る不思議な話」という本を図書館で借りて読んだ。
山にまつわる怪談話し。
予約人数が多くかなり待ったので、期待感は高まったのだけれど、期待外れだった。

で。
以前どこかで見聞きした山にまつわる怪談をちょっと覚書いておきます。
こちらのほうが余程面白い。わたし的には。

何人からなるパーティが悪天候の中を遭難して。
命の危険も感じられる程の大変な状況を皆で協力して何とか乗り切るようなことがあって。

無事に下山したあと、その遭難時のことを皆で思い出しながら語り合っていると、「あれ? あの時、もうひとりいなかった? 後ろから俺のことを支えてくれた奴がいたよね? 俺たち5人のパーティだけれど、でも確かにもうひとりいたはず」、みたいな話になるのだそう。それはメンバーひとりひとりが皆、そのように感じている。

この話は割とよく聞くパターンだそうで。
つまり火事場の馬鹿力じゃないけれど、異常時には皆が100パーセント以上の力を出しているので、実際の人数より多くいるように感じるらしい。

でもね。
本当はもうひとりいるのかも☆ 助けてくれる誰か。
見守ってくれている誰か。
と考えた方が楽しい。面白い。



下の日記の続き。
この本に収められている「集会」というのが、ハロウィン関連です。
この「集会」ですが、大昔に読んだのだけれど。
いまだに心の奥深くにしっかりと残っている小品です。
短編が3つ収められているけれど、特に樹影譚は良かった。
良かったというより何だろう? アマゾンでの誰かの書評にあったように、「この人には本当にかなわないな」と思わせられる才気が匂い立つような作品。
頭の回転が速くてセンスがよくて洒脱で楽しい人。人生を軽々と渡ることが出来る人。丸谷才一にはそういうイメージがある。
誰もこの人にはかなわない。

樹影譚だけれど、物語の中に物語があり、その中にそのまた物語があるという構造。相当テクニックがないと出来ない芸当。そこでさらりと語られる物語の数々が全部面白いのだからまいる。小さな小さな細工物の小さな小さな部分でさえも、すべて精巧に作られているような感じ。

丸谷才一は村上春樹の才能をいち早く見出した人だそう。
なるほど。この軽さは日本的でないよね、日本的でないというのが共通点かな、と思う。

この樹影譚だけれど、60代の時の作品。これもすごい。
平安の終わりから鎌倉のはじめ。
藤原定家は80歳まで生きた。19歳から70代ぐらいまでの日記。
同時代人には平清盛とか鴨長明、後白河法皇、源実朝など、興味深い人達がたくさんいる。
寝る前に枕元のスタンドの灯りで数ページ読むのは至福のひととき。
母の具合が悪く目が離せない。
仕事の日以外はなるべく家にいることにしている。
家で楽しむすべを見つけようと思う。

そんなわけで以前購入したこの本を取り出し、百均で揃えたネイルグッズを使い、ネイルアートもどきをやってみた。
きれいな色を何色か使うと荒が目立たない。可愛い。

”短い爪でもかわいい”というか私は短い爪のほうが好き。
可愛い系のネイルは短い爪のほうが映えると思う。

この本は可愛いデザインが揃っていて見ているだけでも楽しい。
おどろおどろなタイトルだけれど、そういう本ではありません。
スピリチュアル的でない邪悪さも世の中に溢れているわけで、そういうものに対する雑感なのかな。まだ1割がたしか読んでいないので、よく分からないけど。

元々はブログに書かれていたものをピックアップしたようで、読みやすい。
時間があるときにちょっと読むことが出来て便利。

思わずなるほどと感じる表現が随所にあるのだけれど、どうなのかな。ちょっと文章が回りくどい。もうちょっと簡単な言い方が出来ないのかなとも思う。

そして、なるほどとは思うのだけれど、でも何か違和感が残る。読後に。
私とは違う考え方の人なのだろう。

着任のあいさつ(取引先へ)
× 何かとご迷惑をおかけしますが
(取引先に対して必要以上に謙遜するのは逆効果)

○ お役にたてますよう、全力を注いでまいります


Kちゃんの中学入学のお祝いに本を贈ろうと思い、これを選んだのだけれど、店内で持ち歩いているうちに不安になってきた。中学1年生女子にあげるような本じゃない。でもKちゃんは勉強熱心だし、幼稚園の時に「おそれいります」なんて言っていた娘だし、それにこんな本をあげるなんて私らしいかな、とも思ったのだけれど。

でももしかしたら、「あなたの人間関係のマナーはなっていないからこれで勉強しなさい!」みたいに取られるのはまずいとも思い、他にも購入した。

入学するのはKちゃんなのだけれど、やっぱり兄のU君にもあげないと傷つくだろうか?などと気になりはじめ、結局全部で4冊購入。
汚さないように読んで、それぞれにどれをあげるか決めよう。
ワイド版。
文庫がそのままふたまわりぐらい大きくなった感じ。
文字は大きいけれど、表紙と裏表紙の柔らかさは文庫と変わらないので、手に持った感じが良い。
読みやすい。

寺田寅彦のエッセーは随分若い頃読んだ。

この人は、もともとは理系の人。でも文系でもある。
池澤夏樹なんかもそうだけれど、こういう両方の感性を持った人の思考というのは、読んでいてすごく快適。私には合う。文系オンリーの人のものはやはり重たいから。
理系オンリーだと深みに欠ける感じ。

百年近く前の作品だけれど。
都会に住む人々の日常生活というのは今と全然変わらない。
本当に。
母親を某温泉宿に送っていく。
「最高齢は百歳の人も来ていますよ」との宿の人の談。
お年寄りが連泊する湯治の宿。
東京からも近いし、山の中でないし、お湯も良いし、自炊でないところも良い。

徒歩15分ぐらいのところにコンビニがあって、母親の為に化粧水だのお菓子だのオロナミンCだのを買いにいった。

そこの本売り場の割と目立つところに、この「失踪日記2 アル中病棟」があった。
私は1を読んだことがあって、すごく面白かったのを覚えていて、そして何だろう、本って一種の出会いだから、こんなところで出会うのも他生の縁。もうちょっとで買いそうになった。実用書以外、滅多に買わないのだけれど。

空港の本屋さんとか。病院の売店とか。そしてこんなふうな地方のコンビニとか。結構本との出会いがある。

「アル中病棟」か。何だかそういう人が多い土地柄なのかなと思った。すみません。

1は本当に面白かったし、この2も検索してみたら図書館にもあるし、近々読もうと思う。絶対に面白いと思う。
今時のオタクが「欲しいものに対しては金を惜しまず」といった尊大な態度を保持していることが、わたしとしてはまことに苦々しい(オタクと書いたが、それを若者と書き直してもそれほど事態は違ってこない筈である)。そんな方法論では真の充実感には至らないだろう。オタクであること以外に主張すべきものなど何もないつまらぬ連中が、辛さや情けなさや悔しさを託しつつ世間一般では無価値とされるものにあえて価値や意義を見出していくという行為であれば、それは分かる。そこにささやかな充実感を見つけ出そうとする態度は、私の心性に繋がるものである。
ただしそうした方向へのレールが既に敷かれ、オタクという行動にある種の後ろめたさや羞恥心を覚えることのないまま、口先だけの自己欺瞞で盛り上がりつつ金を惜しまぬその「つましさや自分の醜さを忘れた」態度が気に食わない。居直ることよりももっと安易な態度でとりあえず頭の中を躁モードに切り換えておこうといった発想が、気に食わない。


作者は春日武彦という精神科医。不勉強なもので名前を知らなかった。
多くの著作があり、どれも非常に切れ味が鋭いように思える。

上記のオタク考だけれど、どうなのだろう。
世の中というのは、何もかもがみな、そうなのではないか?
はじめは一部の人だけの物だった、物なり概念なりが、人気が出ると大衆化する。形骸化する。
オタクという概念もそうなのだろう。
世の中と相容れ難い人は、取りあえずオタクという概念をまとうと生き易いし免罪符でもあるのではないか。

本当のオタクはだからもうオタクというフィールドからいなくなっているように思う。
じゃあどこに行っているのかな、と思うと、ちょっと分からないけど。
非常に良かった。
比較的最近訳されたものの為か、とても読みやすい。
ウルフは難解らしいけれど、難解というより、判る人には判る。そういうことなのだと思う。
読み手に受け止めるアンテナがあるかどうか。

けれど、タイタンの妖女の時もそう思ったのだけれど、こういった作品に感銘を受け、共鳴してしまうタイプというのは、人生において生き難い人かもしれない。
図書館で借りてくる。

微分・積分について、とても良く分かった。
思えば高校生の時は、そもそも微分とは何か、何故そういったものが発展していったのか、ということを説明せずに、ただただ解法の手順を教えただけだったから分からなかったのだろうと思う。
もっとも数学的なセンスのある人だったら、全然問題がなく、さらっとそれでも頭に入ったのだろうけれど。

今日の朝日新聞で、数学大国インド、という記事が掲載されていた。インド人にとっては、数学がまず一番であって、インド工科大を卒業して米マイクロソフト社に入るのが、最大のエリートなのだそう。

私は国語の才能は少しはあるようなので、中学生ぐらいまで数学もそれなりに出来た。
国語の才能がないと、数学の文章問題を理解出来ない。
だから、国語が出来ると、数学でも少し有利。

でも数学的なセンスは、ほぼ無いかな。
そして、そのことが感じられる程度の微小な才はあるから、よけい辛かったりする。

美しい詩を暗誦するのも良いけれど、数学や物理なんかも、とても美しい。
すらすらと頭に入ることが出来たのなら、どんなにか素晴らしいだろう。
1936年生まれの作者。
30代の頃、勤めを辞めて、全国を歩きお年寄りから昔の話を収集した経歴を持つ。
以前、出版された作品の新装出版。

これは、いくつかの小品を集めたものなのだけれど、中でもタイトルになった「鶏が鳴く東」は、目からうろこのような作品だった。

防人って中学の頃、習ったと思う。
九州の防衛に、関東地方の庶民を集めて、兵隊として送った、というもの。
関東はあの頃、貧しい征服された人々が住む所だし、だからそういった地方から人を集めて送った、というのが一般の解釈だと思うのだけれど。

でも、作者(斎藤たまさん)がいうには、東というのは太陽が昇る方角であり、だから霊力がある。そういう所から来た兵士は縁起が良く強い、という呪術的な思いが当時の人々にあって、だからこそ関東から兵士を集めた、とあった。

なるほどね~。

また「鶏が鳴く」というのは東にかかる枕詞なのだけれど、これは東国の人が、あたかも鶏が鳴くような良く分からない耳障りな言葉を喋るので、それを揶揄してのこと、というのが、通説のひとつ、らしいのだけれど、斎藤たまさんは、「それは違う。やはり東という方角のありがたさ、鶏という生き物の霊験ありがたさを示している」と言っていた。

作者はまだお元気なよう。
定時制の高校か何かを出て、社会に出て、市井でずっと活動してきて、しかも女性。
何冊も著作があるようだから、知っている人は知っている存在だったと思うのだけれど、本来なら、もっと脚光をあびてしかるべき人なのだと思う。
どうぞいつまでもお元気で、と思った。
ヤフオク売却品の発送をしに行ったコンビニで、ざっと目を通した。
とても気に入った。
断捨離、順調に実行中の私が、買おうかな、と思ったほど。
「わたしはお金が大好き!」。折にふれ、この台詞を言う必要があることを再確認した。
先日オーガニックなレストランでランチをしてたら、やはり一人客の女性が読んでいた本。

気になってアマゾンでチェック。
まだ実際に読んだわけじゃないので、詳しい書評は出来ないけど。うーん。こんな本が書かれるって時点で、もう終わっているのではないかな。アパート経営。

まぁ不動産屋さんとしては、棟売り物件が売れるってことだから、大歓迎なのだろうけれど。

2月下旬に102さんが退去。
今回のリフォームの要はキッチンの2口化。

今、私が興味があるのは、廉価なホテルというか下宿屋さん。
シェアルーム、ホームステイ、そんな感じ。
朝ドラの主人公が働いていたような旅館みたいな。
公的機関が間に入ってくれて、困窮者の一時的な住まい、みたいには出来ないのかな? そんなに簡単ではないだろうか。

イギリスには、ビジネスとしてホームステイを提供する人達がいるそうだけれど、これも面白そう。

早く102が決まって欲しい。




リチャード3世の遺骨が見つかった、ということで。

実はまだ読んでいない。
これを機に読んでみようかな。

私の世代はリチャード3世といえば、森川久美の「天の戴冠」。
シェークスピアとは似ても似つかないリチャードのキャラクター設定に、「いったいこの元ネタは何?」と思っていたのだけれど、今、ふと気が付いた。
時の娘、って日本での発売は1977年。
オリジナルはもっと前だろうから、この本がベースになったのかな。

ところで私は、リチャード3世、それからお兄さんのエドワード4世の絵葉書を持っています。
昔、ロンドンのナショナルポートレート・ギャラリーで買ったもの。ここは、肖像画ばかり集めた美術館。
肖像画って見ていて厭きない。おすすめです。

http://www.npg.org.uk/

↑ ナショナルポートレート・ギャラリー。
トップページにしっかりリチャードの画像が載っていました^^;
本日、借りてきた。
作者は関裕二という人。
今まで知らなかったのだけれど、何十冊と本を出しているようで、有名な人らしい。
「聖徳太子は蘇我入鹿である」などというスリリングなものも中にはあって、いわゆるとんでも本の系統なのかな。

日本書紀が作られたのが西暦720年ぐらいだっただろうか。

人間というのは、せいぜい自分の祖父母の代ぐらいまでしか、よく分からないらしい。
まして、そこに自分の家系を正当化しようとする様々な思惑が働くと、確かにずいぶんねつ造されているのだと思う。

だけど不思議。
どうして古墳時代とかに文字が発明されて、歴史書とかが出来なかったのだろう?
あれだけ巨大な古墳を作って、副葬品も入れたのだから、埋葬者の偉業を讃える石碑のひとつも入れてもおかしくないと思うのだけれど。

the power of now じゃないけれど、昔の人は、今にしか興味が無くて、過去や未来は考えなかったのか。
それとも、ヒエダノアレみたいに、暗唱者がたくさんいて、信じられないぐらい長い物語を語れたのか。

グリム兄弟が昔話を収集した時、毎回毎回、一字一句違わず、正確に暗唱出来る人達がたくさんいたのに驚いた、とのことだけれど、昔の人は、今のように、便利な機器が無かったから、様々な能力に長けていたのだろうか。

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